ただの男がバイクで世界一周を叶えるまでの記録。

高校生からの夢、バイクで世界一周を叶えるまでの記録をまとめたブログ。旅の理由、決断に至るまで、お金のこと、旅の準備、旅の様子など、考えうる全てを後に続くライダーのために残したいと思っています。

角幡唯介『新・冒険論』を読んで~脱システムへの葛藤~ 

こんばんは、ファササビです。

 

私は今、興奮している。

 

火を点けたのはこの一冊。

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数日前の記事で取り上げた、角幡唯介『新・冒険論』だ。

先日BOOKOFFを彷徨っていた際、本当に偶然、無数の本が並ぶ本棚の中に角幡さんのエッセイ本である『探検家、36歳の憂鬱』を発見し、当然購入。そしてこの本がきっかけで、約一年越しに角幡さんのファンとなり、今回この本を購入することになった。

 

昨年、2018年12月に大阪のモンベル本社で開催されたモンベル冒険塾にて角幡さんのことを知り、その時に角幡さんの提唱する『脱システムとしての冒険』に私は圧倒された。天啓に導かれたというべきか。角幡さん流に表現するならば「被爆した」だろうか。

そして、当時角幡さんが提唱していた『脱システムとしての冒険』の本質を、この本を通して知ることになった。

 

www.fasasabi.com

 

結論から言うと、私は完全に角幡さんの提唱する『脱システムとしての冒険』の虜になった。いや、狂信者だろうか。

真顔でタイピングできるほど多少落ち着きはしたが、今日の昼休みの読書後の私の興奮と言ったら凄まじいものだった。勝手に鼻息は荒くなるわ、急ぐ必要もないのに体裁きは素早くなるわで、自分でも「こいつどうかしてるんじゃないか」と思うほどだった。

打ちながら、また興奮してきた。

 

本書の内容に関しては、いかんせん私もまだ終わっていないのと、頭の中で整理ができていないため、あと10回ほど読んで完全に自分の物にできてから別の記事で取り上げたいと思う。

そのため、当記事はあくまで私の戯言兼備忘録である。

 

 

旅を脱システムに近づける

中盤まで読んだ時点で思うこと気付かされることは沢山あったが、最も私を考えさせたのは、私の旅をどこまで『脱システム』できるか、だ。

以前から言っているように、モンベル冒険塾での角幡さんと吉田さんの影響もあって、私は旅の間にスマホを起動し、ナビに従ってバイクを走らせることは断じてない。

なぜなら、そこには私の意思で走るという主体性は存在せず、ナビとGPSいうシステムの管理下に置かれているに過ぎないからだ。

道行く先は予測され、ナビの表示に従ってほぼ無意識に舵を切る動作に、私はドキドキやワクワク(敢えてこの表現を使用させていただく)を見出せるとは思えない。

便利な道具を使うにあたり様々な考えがあるが、バイクに乗り始めた当初から私の中ではそう結論付けられおり、本書の中でも極地探検を例に取り、同じようなことを言われていた。

 

 

冒険への境界線

では、通信機器を例に挙げた場合の私の旅でできる脱システムというのは、「あくまで必要な連絡や、緊急時のための通信手段としてスマホを持つ」ことが挙げられる。言うなれば、使用に関し極端な制限を掛けることで、管理されたシステムの外に近づこうという試みだ。

私が行う努力(というのも馬鹿バカしいが)としては「何が何でもGPSなどに頼らないこと」「気軽に宿を検索してスマホ片手に楽ちん予約をしないこと」などだろうか。日常当たり前にやっていること(ただの移動の際は私もマップの便利さにどっぷり浸かっている)、恩恵を受けている便利なことから脱却することだ。

今まではこれを行うことで、私なりに『脱システムとしての冒険』に少しは近づけると思っていたが、今日、ある疑問が浮かんだ。

 

それは、スマホ(通信機器なら何でもよい)を携行する時点で、真の意味での『脱システム』には全く近づけていないのではないかということだ。

 

例えばサハラやナラボー平原などの半径100㎞以上の無人地帯を、私が単身で縦断するとしよう。

この時スマホ(GPS機器)を持っている時の心境としては「いざとなればGPSで現在地もわかるし・・・」という、「いざという時」に対する安心感が生まれる。これは言うなればスマホのGPS任せの、ある意味他人任せではないだろうか?

スマホを持っていない場合は逆に「いざという時があってはならない」と堅く誓い、あらゆる事態を想定し、死なないために自身で解決するための努力を行うだろう。その際、人に協力を仰ぐこともあれば、自身で何か創作したり、危険を回避する上で様々な過程が生まれるだろう。

 

つまるところ、そのような便利な機器を所持している時点で、最終的にはどこか他人任せにできる甘えが生まれてしまうのではないかということだ。

これ以上進むべきか戻るべきかの判断までも最終的にはシステムによって管理されるのであれば、それは私が望む旅となるのだろうか。

天気や物資、自身の身体状況等、あらゆる情報と今までの経験から判断を下し、前に進む必要があるのか後退すべきかなど判断するのが面白いのではないか。

 

私はどうも、「絶対に必要以外には使わない」と決めているとは言え、この超絶便利なスマホを携行している時点で、「負け」だと感じるのだ。そこに私の求める真の旅、冒険のようなものは存在しえないと思うのだ。

 

 

死なない努力としてのスマホ携行

だが、やはりスマホの様な通信機器、GPS機器を携行する重要性を考えると、葛藤してしまう自分もいる。

結局はこの機械を携行する重要性とは、命を守る点にあると思う。

電波さえ届いていれば誰かにピックアップを要請することもできるし、どんな無人地帯だろうとGPSさえ生きていれば自身の現在地を知ることができる。

このことから、私の身を案じてくれる家族や友人知人たちへの最低限の努力の証明として、私はスマホを携行することに決めていた。

実際私自身死ぬのは怖いし、やはりなにかあった時のための最大の武器として、普段使いなれているスマホを信頼はしているのだ。

だがやはり、前述したように、携行した時点で私の理想から大きく離れてしまう気がし始めたので、迷っている・・・といった心境だ。

 

 

考えることを放棄しない

であればどうすれば良いか。

まずは私自身が準備段階でも最大限努力する姿を見せることによって、その人たちの理解を得るしかない。こればかりは仕方ない。

 

では他のスマホの役割はどうすれば良いか考えてみた。

①安否報告

WiFi環境下でSNSやメールで連絡→定期的な手紙の送付で十分では

②原稿の送付

安否報告と同じく、SNSやメールで連絡→ネカフェなどのPCからメール送付

③写真データの管理

カメラのWiFi機能でスマホに転送し、WiFi環境下でGoogleフォトにアップロード→大人しくHDD保存

④ブログの更新

WiFi環境下で定期的に更新→ネカフェなどのPCから友人宛にメール送付し、代わりに更新してもらう

 

こんなもんか。調べればもっと適切な方法があるだろう。

 

そして最も重要な役割である現在地の確認と救援要請についてだが、これに関しては、その場で自力で解決する努力をすべきである。

例えば砂漠で立ち往生する可能性があるのなら、事前に徒歩での脱出ではどのくらいの日数がかかるのかを考え、十分な食料と水分を積載しておく。

荷物が運搬しやすいようにバイクを解体して簡単なソリなどを作り、ロープで引っ張れないか考えてみる。前後のフェンダーを加工すればできそうな気もするではないか。

 

このように、「いざという時」の先のことについて考えることを放棄していたことに今日、気が付いた。スマホの様な便利な機器を当たり前に使うようになって、自らの頭で考えることを私はしばしば放棄しているようだ。

何かあった時に自力で帰還することを放棄するようでは、そもそもお前行くんじゃないよと、今では思う。

 

 

私の求める旅とはなにか

ここで改めて整理してみたい。

結局は、私はなにを一番に大事にしたいのか。

 

命か?ドキドキやワクワクか?

 

やはり、後者だろう。

 

先ほども言ったように、死ぬのは怖いし、死ぬつもりもない。

しかし、やはり冒険に近づくには生命の危険は避けて通れないものだ。とはいっても、私が行うのは何てことのないただのバイク旅であり、なにも極地探検に赴くような特別命を張るようなことではない。

 

また、この旅は人生で最初で最後である。

 

「世界一周バイク旅」というジャンルの行いは生きている限り何度でも行えるが、「初の海外」「初の海外ツーリング」「言語も未熟」などの、あらゆることに対して未経験である状態での旅は、もう二度と味わえないのだ。

 

ある意味最も、このジャンルに関してはシステムの外側に居ると言っても良い状態であり、それは旅を面白くするうえで最も良い状態でもあるのだ。

であれば、尚のこと旅を面白くするために自身の力で行えることがあるのなら、それを行わない手は無いだろう。

 

 

終わりに

「鉄は熱いうちに打て」ではないが、とりあえず今の気持ちを残しておきたい思いから、ひたすら書き連ねてみた次第である。

とにかく、納得がいかないのだ。

便利なものにどっぷりとつかって、本来自由であるはずだった旅がシステム化され、これが正解これが当然となっているのが納得がいかないのだ。

遠い異国の地からSNSを通じて母国と常時繋がっていることに納得がいかないのだ。

行き当たりばったりでもみくちゃにされるからこそ、いろんな出会いもあり旅が面白くなるのではないか?

紙の地図を広げて明日の自分を想像するからこそ、私たちは旅にロマンを感じるのではないか?

数年ぶりに届けた肉声が「ただいま」であるから、無事の帰還と旅の成功の喜びを家族友人知人と分かち合えるのではないのか?

私が憧れる旅の形はそのようなものなのだ。

 

本書では登山や極地探検を例に、ある行いがジャンル化されることについて書かれている。

海外ツーリングも同じように、車体にはナビを搭載し、挙句の果てには衛星電話を持つことも当たり前の時代が来るかもしれない。

紙の地図を使うバイク乗りも見なくなるだろう。

今よりも海外バイク旅は一般化され、バイク乗りの中では経験があって当たり前の時代も来ると思っている。

しかし私は爺になろうと、昔気質を貫きたい。

バイク乗りが一様に旅用最新スーツを着ていく中、ジーンズとジャケットで走っているようなスタイルを貫きたい(といっても現時点でも最新素材の恩恵は受けているが)。

天邪鬼のひねくれ者の性格もあるが、こればかりは大切なことだと思うのだ。

効率化されていく世界でも大切なものを見失わないようにいたいと、本書を通して思っているところである。

はてさて、どうしたもんか。

 

 

 

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