11時27分 長崎駅バスターミナル
おかあに送ってもらって45分発の高速バス待ち。
微熱はなんとか消え去った。本調子の60%てとこか。
7時に起きてパスポートやら最終確認して、安在家とケイスケの息子二人ついでにゆうきにも見送られて出発。
下高さんはるおさんにいただいたG-SHOCKが朝起きたら完全にこと切れていた。そのためユメサで適当なのを急遽購入。だが、今となってはただの電池切れだったのではないかと…。お二人に合わせる顔がねえよ…。
ミーコとコムギにもお別れした。頼むから長生きしてくれよ。じゃないと出て行ったことを後悔してしまう。羽田発まで26時間…。
どっちも微妙な感じで笑った。
出発を決断できなかったのはこいつらの死に間に合えないかもしれないと考えていたのもある。
13時40分 天神行き高速バス車内
じきに天神。ケツ痛え。
みんな普通に乗ってるが、一世一代を掛けた男がソワソワしながら乗ってるなんて誰も知らないんだよな。隣の青年はどんな事情で乗ってるのだろう…なんてな。
最後に開発中の長崎駅を撮る。
実は高速バスでさえ未だに緊張する。
14時28分 行橋行き高速バス車内
なんとか乗れた。現金持ち合わせ0円には笑うしかなかったが,クレカで支払えた。大丈夫かこいつ。
しかし、荷物が重い。乗降場所の200mを移動するだけで地獄だった。病み上がりでこれはまずい。
既に汗だくだが、着替え出すためにパッキングを解きたくない。H家の息子どちらかにシャツ借りよ。
近いからサンティアゴ空港からホステルまで歩いて向かうつもりだったが、無理ダナ…。タクシー使うの怖えなあ。
写真一枚で伝わるこの感じ。帰ってきたなと安心する。
22時50分 H家寝室
さよならパーリイが終わった。
まいちゃんが串をめっちゃ用意してくれて、おまけに牡蠣までいただいて、日本最後の晩餐としても贅沢すぎるほどだ。
久々にこのメンツで集まった。
中には日産出所以来の顔もあり、それこそまいちゃんなんて3年ぶりくらいだった。髪が黒くなったからか、以前よりもだいぶ大人に見えた。
キッズたちももうキッズと呼ぶのは失礼なほどこの数年間で立派になった。
あんじゅは不思議と変わっていない?いい意味でね。自己分析のワークシートに手こずっていたが、悩むのが普通やけん気にすんな。30歳超えてやっと自分のことがわかってくるもんだ。
会場に到着したら、「さらば雄死郎!アンデスに散った漢!!」と書かれた幕がH家の庭の柵に掲げてあった。
その仕掛け人は車内からこちらを伺っていた。師匠は途中までリモートで参加して、気づいたら帰ってた。ゆなやんも車の中で一人待機して参加してくれた。ちくしょー一緒にやりたかったな。師匠から餞別もいただいた。あとチューブパンク修理に使うマルニのパッチも。皆の前だし、本人もあんなだからちゃんとお礼を言えた気がしない。うん、また手紙書こう。
ケビン先生とも電話でお話しした。気を遣われて今回は遠慮されたとのことだ。挨拶行く時間作るべきだったな…。
秋田でマリアさんと英語でやり取りできて嬉しかったことをやっと話したら、先生も喜んでくれた。「俺と当たり前に話していたから、日本人特有の気恥ずかしさも緊張もなく楽しめてるんだろうな」て。確かにその通りだ。
旅が終わったら英会話教室の子供たちに英語で旅の話を聞かせるという約束ももちろん覚えているし、楽しみだ。
後半はH家お手製のフレンチトーストとコーヒーいただいて、中学生男子どもをスマブラでボコボコにして大人の力を見せ付けてやった。
皆の写真もたくさん撮った。照れたり、気づかぬふりしたり、毎回ピースしたり、大人も子供もそれぞれ素直に反応するから面白い。
んで、お風呂もいただいて、先に部屋で休ませてもらっている。
これが日常だ。
あの三年間が最後の最後に再現され、俺の袖を優しく引っ張る。
まいったな。行橋サイコーだ。
俺は満たされていたんだなと今ははっきりと言える。
ここでの三年は平和そのものだった。
そんなことを思いながら星の隠れた黒い空を見上げ、十数時間後の自分を想像する。
明日は晴れてくれよな。