おはようございます、ゆうしろうです。
「ゆうしろう」は「雄志郎」と漢字で書くのですが、不思議と「ユウジロウ(地上最強)」とか「コウシロウ」と読まれることがあるので、敢えてひらがなで表記しています。
さて本題。
ここでの生活も残り間近となり、どうやら昨夜に続いておセンチになり、語りたくなっている様子。まあ当時の心の状態ほど記録する価値のあるものもないので、適当にまたキーボードを打ってみよう。
振り返るにあたって沢山の物事があったが、まずはバイトだろうか。これは外せない。
2018年11月に日産自動車の期間工となり、少し空けた2019年1月くらいからバイトを始めた。
本業だけでなく、なぜ時給も低くなり稼ぐには効率が良いとは言えないバイトまで始めたのか。無論、一銭でも多く稼いで、当時目標であった2020年5月の出発を叶えるためだった。
日産の仕事が思ったよりも残業が少なく、「このままでは出発までに貯まらないのでは」という焦りもあって、後悔しないようにやれることはやっておきたかった。
結果がどうなろうと、とにかく無駄な時間を過ごさずに自分にできる全力を注いでおきたかった。その『やれること』とは『軍資金を一銭でも多く稼ぐこと』だと判断した。
北九州のバイトメインの派遣会社にすぐに登録に向かい、期間工とバイトに浸かる生活が、2020年3月くらいにコロナが本格的に日本で蔓延するまで続いた。
平日は本業をやって、土日はどちらもバイト。
土曜に本業の休日出勤があろうと、関係なくバイト。
金曜日の夜勤上がり、つまり土曜日の朝に寮に帰ってからも寝ずにそのままバイトに向かい、24時間働きっぱなしということもあった。
そんな感じでとにかく働いて働いて、2か月間ずっとまともに休みなく動いていたことも何度かあった。
非効率だということは当然わかっていた。
しかし、こうせざるを得ない状況に自分を追い込んだ自分のこれまでの努力の至らなさも同時に理解していたため、それに対する戒めの意味もあった。
体力的精神的限界を迎える直前まで、それを続けた。
文字通り死ぬほどきつかったが、『目標のために全力を尽くしている』という感覚を得られ、その辛さが心地よく感じることもまたあった。
色んなバイトをやってきた。
始めた当初は、大工時代の現場の雰囲気でまた仕事できるならと思い、施工現場に何度か入ったが糞野郎ばかりだったのですぐにこの手の求人には応募しなくなった。やはり父親の現場チームはホワイトだったのだろうな。
それからは色んな仕事に手を出した。
家具の配送作業、事務所や学校の引っ越し作業、タイヤのコンテナへの積み込みと交換補助、イベント会場テント設営、V6ミュージカルの運営補助、ライブスタッフ、学会の受付、プールの監視員、北九州マラソンの設営と運営補助、プロジェクトマッピング機材の夜間監視、交通量調査、小倉上花見客アンケート調査、コーヒー試飲イベントスタッフ、試験監督、水素風呂マルチ屋集会運営補助、競艇場キッズコーナー運営補助、お笑いイベント運営補助、コストコの寿司屋肉屋・・・。
挙げたらキリがない。自分でも驚いている。
引っ越し作業のバイトは割と楽しかった。
色んな世代から多くの人間が集まるので、色んな人たちと汗流しながらバケツリレーとかお互いに補助し合って体を動かすのは素直に気持ちが良かった。
タイヤ屋は地獄だった。真夏なら死んでいた。実際過去にバイトの子が死んだらしい。
イベント関係のはどれも楽しかった。大学時代の文化祭実行委員の時の経験を活かせた。数回こなしてからはリーダーを任せられるようにもなった(給料はちょろっとUP)。
お笑いライブはお客さんと一緒に死ぬほど笑った。
学会とプロジェクトマッピングのは糞暇で、大好きな読書をして過ごした。
特にマッピングのは最高だった。満月の元、静かに流れる紫側の岬の突端から、市庁舎に浮かぶ小倉上を眺めながら賀曽利さんの世界一周ガイドブックを読んでいた。
本当に語ればキリがない。どれも楽しかったから、体を酷使できた。
だから、コロナでイベントが無くなった時は悲しかった。
多くの出逢いもあった。
引っ越し作業でよく会っていたあのおっちゃんは元気にしているだろうか。体力のない私を良く気遣って話してくれた。
「コロナで大学に行けないから友達ができないんです」と零していた彼はどうなっただろうか。状況は少しでも好転しただろうか。彼のこの言葉を聞いた時、若い世代が最も苦しんでいると、胸が痛くなった。今でも何度も思い出す。
色んなイベントの現場で一緒になり、同じオタク仲間ということで最も仲良くなった彼は元気だろうか。彼とは戦友のような関係だった。地元に帰るかもしれないと言っていたが、まだ北九州にいるのだろうか。
登山バッグに装備詰め込んで登山家の格好で現れるもんだから、色んな人に顔覚えて貰って、話をさせてもらった。
私の旅に興味を持って応援してくれる人も沢山いた。
数えきれないほどの出逢いがあった。
師匠と出会う前、この地で気軽に話せる相手もいなかった私にとって、その出会いは何よりも励みとなった。
そういった楽しさと苦しさを味わいながら、2020年10月の試験監督のバイトを最後に、本業とバイトを掛け持つ生活は終わりとなった。
感染リスクも当然だが、残り一年間の2020年から2021年10月までの一年間の、師匠たちに遊んでもらえる時間を大切にしたいと思ったからだ。
それからは、土曜日は勉強の時間や純粋な遊びの時間に充てた。師匠たちとツーリング行ったりすることも多かった。
日曜日は師匠んとこのお店でバイクのメンテナンスの修行。
一転して、生活が緩やかになったと感じたことを覚えている。
話せば朝になる。
この辺にしておく。
気紛れで振り返ってみたが、振り返ってみて良かった。私はどうやらとても幸せ者だったようだ。当時もわかっていたが、改めて、だ。
楽しかった。本当にどうにかなるんじゃないかというほどに辛い時期もあったが、やはり振り返ると頑張って良かったと思える。当初の目的である軍資金稼ぎの価値以上に、得るもの、いや与えられたものがあった。
いい時間を過ごさせてもらった。
ここを去る前に、連絡先を知る何人かにはここを去ることをしっかり伝えておこう。
旅の間、福岡のラジオで定期報告をすることになったことも話したい。喜んでくれるだろうか。
多くの出逢いに恵まれた。
バイトで出会った皆さん、またどこかで会えたら。