天気は雨。
腹の中には昼飯の海鮮丼。
用事も済ませ気分は落ち着いている。
そして、目の前のTVにはGoogle Photoにバックアップした思い出の写真が次々と流れている。
こんな時には物思いにふけるもの。
来月、私は30歳になる。
久しぶりに自分の中の熱を確かめるべく、淡々とキーボードを打ってみる。
最近、友人知人によく電話をする。
今更語ることでもないが、新型コロナウイルスの発生により、直接面と向かって会うのが難しくなったためである。
当然自身が感染してポックリ行くこともありえるため、話せる時に話しておこうというのもある。
友人や先輩後輩相手には、例え数年ぶりでもさほど身構えずに電話できる。
電話帳やLINEで探して、少しドキドキしながら話し始めるのも楽しい。
しかし、電話をしたいとずっと思いつつも未だにできていない人たちがいる。
親父と一緒に家を建てたり直したりして仕事をしていた方々だ。
私も親父に弟子入りした2013年4月から2015年5月まで、大変世話になったし、本当に可愛がってもらった。
親父が病気で倒れ、親父の代わりに半年間代表を務めることになった私を本当にいろんな形で助けてくれた方たちだ。
家業の看板を下ろしたあとも何かと気に掛けて貰っている。
しかし、そんな方々に対して、私は旅に出ることさえも話ができていない。
理由としては、私自身に未だに後悔のような思いがあるからだ。
このまま親父の代わりを務めるか、看板を下ろして別の新たな道を歩むか。
私は2015年の春ごろ、決断する必要があった。
結果、後者を選択した。
当時の私は考えに考え尽くして決断したつもりだ。
実際に今考えても、家業を続けるのは大きなリスクがあったため、今こうして毎日健康に生きられているのなら正しかったとも言える。
「お前は必死にやっとったやんか」と言ってくれた友人もいる。
しかし、「それでも何かできたのではないか」という思いが、後悔が、私から無くなることはなかった。
寧ろ、時が経てば経つほどその思いは強くなる。
「逃げただけではないのか」「楽になりたかっただけではないのか」
確かに一人前の大工になる道は辛い。
休みも人の半分以下であり、危険でありきつい生活ではあった。
しかし、確実に一歩ずつ進歩を感じる大工見習としての日々は楽しくあり、尊敬する親父と一緒に仕事してお客さんに喜んでもらったときは、本当にやり甲斐を感じていた。
ただ消費するだけでなく、何かを生み出せるようになった自分が誇らしかった。
大工の道を志した時に、友人と先輩から「家建てるときは頼むけん」と言ってもらえたことが何よりも嬉しく、そのためならどんなにキツイことも頑張ることができ、バイク旅のよりも大切な夢になった。
そんな日々に、間違いなく正しい道を生きていると感じていた。
そう思うからこそ、「まだやりようはあったのではないか」と考えるのである。
「うちに来て修行しないか」と救いの手を差し伸べてくれる人たちもいた。
だが私はそれを断った。
この時、差し伸べられた手を握っていれば、今も家業を守れていたのではないか。
楽な道に逃げたかったから、安易な考えで選択したのではないか。
つまり、私は、私が絶望しかけていた時期に助けてくれた人生の先輩方へ合わせる顔を持っていない。
だから今も連絡できないでいる。
ただ、こう話したいとは思っている。
「あの時、家業を守れなかったことに後悔や負い目に似た何かをずっと引きずっている。
この気持ちは私が真にやりたい仕事で結果を残して、あの時の選択は間違っていなかったと心から言えるようにならないと消えることは無い。
そのためには、昔から何をするにしても心にあった、バイクで世界を周るという夢を遂げて、一度自由にならなければならない。
無事に帰ったらやりたい仕事も個人の活動もある。
だから、信じて欲しい」
「信じて欲しい」という、たった今自然に出た、用意していなかった言葉に、今の私の気持ちが現れたような気がして自分自身驚いている。
確かに、信じて欲しいのだ。
なにをするにしても心にあった。
友達と遊ぶにしても。
恋をするにしても。
勉強するにしても。
歳を取るにしても。
火が点いてからというもの、永遠に心のどこかに引っかかっているのだ。
はっきりいって、イカレている。
普通ではない。
普通の人間なら、自身の夢とはどこかで折り合いをつけるものだ。
だが私にはできなかった。
今は戦時中でもない。
他人と競う夢でもない。
運否天賦も必要ない。
金と時間と動く身体があればよい。
だったら、やらなけらばならない。
これでやらないなど、ありえないのだ。
だが、こんなことを他人に話したところで、私がそう思って生きていたことを証明することなど不可能であり、突き詰めれば個人の死生観も関わって来る。
だから、決まって理解されない。
そんなことはずっと前からわかっている。
だから、理解されなくてもいい。
ただ、信じて欲しいのだ。
誰よりも世話になった人たちには、大切な人たちには、私が嘘をついていないということを、未来のために今、この道を選んで生きていることを信じて欲しいのだ。
もはや、「やりたいこと」でなく「やらなければならないこと」なのだ。
これをやり終えなければ私は本当にしたい仕事に挑戦することもできない。
恋愛して、結婚して家庭を持つという普通の人生を選べない。
永遠に残る負い目を打ち消すこともできない。
私にとって、そんな人生は人生とは言わない。
死んで生きるなど、できないのだ。
だから、やらなければならない。
どれだけ時間が掛かろうと、どれだけ泥を啜ろうと、だ。
そのために今生きていることを、信じて欲しいのだ。
人生の負い目や後悔は必ずしもその人にマイナスな影響だけを与えるものでは無い。
今の私のように、何かしらの原動力になることもある。
この原動力を胸に、いつか「間違っていなかった」と心から言えるようになりたい。
自身を信じてくれる人たちの期待に応えたい。
ただそれだけである。