桜も散り、本格的に暖かくなってきたこの頃。
ゴールデンウィークも控え、野外での遊びが活発になってくる季節だ。
そんな今の時期に毎年見るのが、家族での野外レジャー中に起きる水難事故、遭難事故等のニュース。
必ずと言っていいほど毎年この悲しいニュースを見る朝がある。
そのたびに思う。
どうして今の時代に、この技術や科学の発達した時代に、どうして遥か昔から起きているような事故が今の時代でも起きてしまうのかと。
悔しく思う。
「あの道具を持っていれば」「せめて登山届を出していれば」「ライフジャケットを着ていれば」と、悔しく、憤り、悲しく思う。
TVの前の私は所詮傍観者でしかなく、成す統べもなく結果を見届けるだけ。
知っているか知らないかの違いだけかもしれない。
もしかしたらそのような道具があると知っていたら迷わず携行していたかもしれない。
知っていたとしても、慢心からそうしなかったのかもしれない。
昨年、2018年5月29日、新潟県五頭連峰にて山岳遭難の結果遺体で発見された親子のことを思い出すことがある。
二人の死因は低体温症とのことだった。
辛かっただろう。
寒かっただろう。
心細かっただろう。
日の暮れてからの山は一気にその表情を変える。鬱蒼とした森であれば月の光も届かず、辺り一面真の闇に包まれる。
新潟のある程度標高のある山であれば、この時期も残雪があるほどの寒さだったろう。
その中を数日間。言葉にならない。
私は全く無関係な人間であるが、ニュースを見た当時自身の無力感に強く悔しい思いをした。
遭難当時、二人がどのような装備で登山に臨んだのかは明かされなかったが、「せめて火を熾せれば」「水が飲めれば」「GPSの山岳マップを持っていれば」と思った。
それは、そういう手段・道具があることを知っている人間だから起きた考えだ。
悔しかった。
なぜ二人は遭難しなければならなかったのか。
登山届も出していたのになぜ捜索が上手くいかなかったのか。
登山届以外にもいくつかの手段で信頼できる人に情報を共有できていれば。
悔しかった。
無論最も悔しかったのはご主人だろう。。恐らく先に動けなくなったのは息子さんだったろう。それをどうすることもできないご主人の無念を思うと胸が苦しくなる。
残された親族、知人友人の方々も悔しかっただろう。私のように少しでも緊急時対応の知識を持っている人は、「あの時伝えておけばよかった」「嫌な顔されてでも構わないから装備を改めさせるべきだった」と思い自分を責めたかもしれない。
今までもたくさんそのような事故はニュースなどを介して目にしてきたのだろうが、昨年のこの遭難事故は私に大きな衝撃を与えた。とにかく、悲しく、悔しかった。
あれからそういった話を家族や友人に振るようになった。
私には可愛い可愛い姪っ子がいる。二つ上の姉の子だ。
そんな可愛い小さな生き物を見ていると、やはり叔父としてそのような事故が心配になてくる。小さな子が海や川辺で親が目を離した際に溺れ、命を落としたという話をよく聞くからだ。
余計な世話とはわかっているが、「あの時言っていれば」などと後で絶対に言いたくないということから、「ライフジャケット買ってやるけん着させて遊ばせんね」と姉に提案してみたが、その時は一笑に付された。
私は水難事故が憎い。
なぜ憎いのかというと、親の油断により小さな子供が命を落とすことが余りにも多いからだ。
「なぜ目を離したのか」
「なぜその波の高さで泳がせたのか」
「なぜライフジャケットを着させてあげなかったのか」
「海の怖さを知らなかったのか」
子供は親を選べない。
親の行動次第で子供の命が危険に晒されているのが現実だ。
人は洗面器に薄く張ったくらいの水でも溺れることができる。
私自身これまでに何度か溺死するかもしれない経験はしてきた。
道迷いだってそうだ。愚かな判断で30分ほど立ち往生してしまったこともある。
言ってしまえばたまたま、幸運にも生きながらえているだけだ。
祖父に「釣りするとき着ろよ」と買って与えられていたライフジャケットもほとんど着たことが無かった。
私も子供の頃は自然の怖さを、万が一を知らない馬鹿な少年だったのだ。
人はあっけなく道に迷うし、溺れることができる。
子供の水難事故も毎年後を絶たない。
ライフジャケットも昔に比べスリムにもお洒落にも、良いものでも安価にもなった。
それでもライフジャケットの着用は浸透しない。
遭難事故も同じである。
いまだに登山届の提出は浸透しておらず、コンパスも持たず地図の準備もせずに出掛ける登山者もいる。
バイク仲間にも話すことがある。
ツーリングに行く際、合羽を持たないで走りに行く人がいる。
人は雨に全身を濡らされ、そのまま長時間過ごせば暖かい時期でも場合によっては低体温症となり、最悪死に至る。
これもまた私自身経験がある。
バカな後輩が合羽も持たずツーリングに参加した結果、帰りに大雨に見舞われた。しっかり伝えてなかった私にも非があるため、その時は私の合羽を貸したのだが、夏だからと言うことで甘く見ていた。震えが止まらず本当に低体温症で死ぬかと思った。
これが登山となるともっと恐ろしい。
山は簡単に降りられない。着替えもできないまま濡れた体で夜を迎えでもしたら大変なことになる。
富士山ホテルで夏のひと月の間働いただけでも、合羽も着ない、そもそも持っていない人たちを大勢見てきた。
その人たちは気温8℃の、一寸先も見えないような嵐の夜の中全身を濡らし命からがら山小屋に辿り着いた様子だった。山小屋が無ければ彼らはどうなっていたのだろうか。
人は簡単に死ぬ。
だから私は日常に於いても「死なないこと」にお金と時間と労力をかけることを惜しまないことを自身に課している。
自身の出来の悪さを受け入れ、補うために技術を知識を習得する。
それが私に優しくしてくれる大切な人達への礼儀であり、責務だと思っている。
結果それが、大切なものを守る力に繋がると思っている。
バイク旅を終えてからやりたいことの一つに、子供を対象にしたアウトドア教室の開催がある。
子供たちに火の起こし方や刃物の使い方、水の確保の方法を教え実践してもらい、活きる力として身に付けて欲しいためだ。
技術だけではない。例えばスマートホンのアプリやGPSを使用した緊急時の行動、その他ガジェットやアナログの道具でなにができるのかということを知ってもらい、現代だからできる生き延びる手段を身に付けて欲しい。
自然に関する知識もそうだ。
自然の優しい面怖い面を知ることで自然に興味を持ち、彼らなりに上手に自然と付き合っていって欲しい。自然で生きる力を身に付けて自信を付けて欲しい。
先人たちが確かに思い描いた未来を、数々の成功や無念から築かれた時代を私たちは生きている。
ならばこそ、自身や大切な人たちの命を守るためにも過去にはなかった現代の素晴らしい科学や技術、その教訓を我々なりに活かしていかなければならない。
このやりたいことが叶えば、私が過去に抱いた悔しい思い、無力感に対して答えを示せるような気がしている。
私はプロの登山家でもレスキュー隊員でもない、ただの自然愛好家に過ぎないので無責任に大層なことは言えないが、少なくとも自身にできるレベルで子供たちに技術や知識を伝え、一人でも自然と上手く付き合える子供に育ってくれたらと思う。
子供たちが大人になり親になれば、今度は彼らが自身の子供たちに同じように技術と知識を伝えてくれるだろう。そうなれば、悲しい遭難事故なども少しづつ減ってくれるはずだ。私はそう信じている。
これは全て私の独り言である。
ゴールデンウィークが間近であることをTVのニュースで知った際、このような考えに至り延々と自問自答していた。
他人にどう伝えればこの気持ちをわかってもらえるかは今でもわからない。
こういう話を真剣に切り出しても相手にされないのがほとんどだ。
しかし折角真剣に考えていることだ。であれば自身のブログでなら吐いても良いのではないか。見て貰えば亡くならないで済む命があるかもしれないと思いつらつらと文字として残した。
親が子供を死なせてはいけない。
子供以上に大切なものはこの世にはない。
もう子供が命を落とす悲しいニュースは見たくない。
皆さんの自然遊びが楽しいものとなるよう祈っている。