2021年2月22日午前10時。
夜勤週開始前のお昼前、いつもの砂浜で漂着物に腰掛けて本を読む。
積み本になっていた角幡唯介氏の著作『極夜行前』である。
作中に、こんなやり取りがある。
それにしても…と渡辺さんが言った。
「極地で位置を出すのがどれだけ大変かわかったんじゃないか」
「そうですね。前にGPSで旅をしたときは、何か北極の表面を引っ掻いているだけという物足りなさがあったんですけど、今回は本当に面白かったなあ。一ヶ月ぐらい村のまわりをうろうろしただけですが、新しい世界が見えた感じがしましたね」
角幡唯介『極夜行前』
「引っ掻いているだけ」という言葉。
私がGPSを使い、グーグルマップでツーリングしたときに感じる違和感を言葉にすると、まさにこれだ。
GPSに頼ると、今そこにいる自分が得られる情報を元に現在地を割り出すという作業から開放される。
また、現在地を逐一知ることにより、万が一の遭難も防ぐことができる。
確かに安全かつ、効率的である。
だが、それは思考の放棄であり、場合によっては『バイク旅』だからこそ持つ現代では不要とされつつある面白味を、自ら捨て去っているのではないか。
思考を停止し、ただ地球の表面を引っ掻いて回るために走りに行くのか。
それはやはり、私の理想とする旅や冒険からは大きく離れている。
会話の最後の、渡辺さんのこの言葉で第一章「天測放浪」は締め括られる。
「これからどんどんいろんなことが分かってくるよ。とにかく君はね、今、入口に立ったんだ」
角幡唯介『極夜行前』
そう、わからないのだ。やってみなければわからない。最悪、入口にさえ辿り着けずに旅を終えるかもしれないのだ。
わかるためには、やってみる。そこで初めて入口に立って、自分の旅が見えてくる。
この科学の時代である。命を守るために使える物は使うべきである。
しかし、私はそこに線引をする。
憧れた人達の旅に比べれば、私のやることなんて何のそのだ。
ならば、多少の危険は受け入れたい。
何より、私の憧れた旅や冒険にはGPSなど存在しない。
単純だが、私は彼らと同じように主人公になりたい。
負けないようにできるだけの技術と知識を身に付けて、しかしそれが通用せずに苦しんで、不安に駆られて、その末に辿り着ける境地に何としても近付きたい。
その為の努力を惜しみたくない。
今までの経験が通用するか試したい。
わからなければ、様々な情報をかき集めて決断する。
どんな山が見える?
街から何km走ってきた?
建物は?
地形はどうだ?
見覚えのある地名はあるか?
進行方向はどの方角を向いている?
川は渡ったか?
海はどこだ?
日没まで残りどれくらいだ?
ガソリンは持つか?
水は?
食い物は?
通用するはずだ。
通用した手応えを感じたい。
命を賭けなければならない場面が人生にあるとしたら、私は今なのである。
それだけの価値が、私の理想とする旅にはある。
事実、準備のためと様々な本を読んだり、実際に自身が試したりしてみて思う。
苦しんで失敗して経験しなければ、何もわからない。
であれば、やらないといけない。
失敗して泣きべそかいて後悔して、やっと上手くいって、自分のものにできる。
それに、俺だって伊達に走ってきていない。
やれないわけがない。
昔はそれが当たり前だったんだ。
ならば、やれ。
お前にできる旅をやれ。
命を賭けなければならない場面が人生にあるとしたら、私は今なのである。
それだけの価値が、私の理想とする旅にはある。
色々書いたが、単純な答えなのだ。
旅の最中でも同じことが言えてるか見ものである。